遅すぎるということはない

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行動するのみ

「行動するのに」「何をするのも遅すぎることはない」という言葉をセットで心に留めておくのは大事である。

なぜなら同調圧力の環境で育ってきた人らの大多数は遠慮なく他人へプレッシャーをかけてくるからである(自分調べ)生きづらさを感じて追い込まれてる人は日本中、いや世界中にきっとたくさんいるはず。

他人が悲観して絶望してしまうほど追い込むなんて、相手の心の問題が根底にあるとしかいえない。健全ではない。我々の社会は健全ではないのかもしれないということにいい加減気づこうぜ!ってこと〜🤪

つまるところ世界は完璧ではないのだ😉だからこそ自分のメンタルが病むほど自分を追い込みすぎないことが結果的に綺麗事かもしれないけど、巡り巡って他人を追い込まないことにつながるのかもしれない。

自分の精神が病むほど追いこまない事は、イコール自分を大事にするにつながる

補足)仕事やスキル獲得の為に自分を追い込むのとはまた別な話である。ちなみに自分はスキルを磨くためにガンガン自分を追い込む派。とことんこだわる派😎

他人と比較しない

世界が完璧でないと気づいたら、基準が狂っているのに比較してどうすんだって話。

自分の話になるが他人とガチ比較してイラついていたのは幼稚園時期と言っていいほど強烈な記憶が残っている。幼き人間は善悪がわかってないからなんとも言えないけど、わかりやすいエゴが確かにあった。

小学生の頃からは親がメンヘラだった為に他人と比較するところではなかった🤪(笑うところである)今で言う子供が親の精神ケアをするヤングケアラーみたいな感じだったため、他人と比較するより親との問題に心が囚われていた。これのまずいことは結果的に自分の時間が奪われてしまうのだ。

そんなわけで親も完璧ではない健全ではない世界にいる他人と比較して、遅い早いなんて気にして心の安定を図るより、自分の限られた時間で何が出来るかに落とし込んで行動することがきっと何よりも大きなものを得ることに繋がる。自分が成長できる。

行動することは、きっと自分の人生と向き合う時

最後の着地点

最後なんて誰にも見えないものなのに、他人の目なんて気にする必要があるのだろうか(反語)

順風満帆なのが長く続かないように何が起こるかわからないのが世の常である。

社会や世間が当たり前のように型にはまった役割を求めてくるけど激流の時代に巻き込まれたら今までのやり方では対応できなくなったりする。想定しないであろうあやゆる事が起きたりする。

ちなみに鴨長明は、あの下鴨神社の後継者争いで失脚して歌人⇨随筆家になっているが最後はどん底貧乏になったという波乱万丈な人生である。ちなみに京都で大災害に遭った経験談を随筆にまとめたのが「方上記」になる。神職の家系なのに出家しているのもアレやけど、「方丈」の由来も小さい庵(つまり晩年は貧しかったことを伝えている)のことをさしていて、誰もが羨むエリート家系に生まれたのにどうして・・・という見本の様な人なのである。

高校時代に鎌倉時代の兼好法師をはじめ彼らの随筆を読むと救われてる自分がいた。他人と比較するのが普通の人よりも下手な方なのも彼らの思考の影響が大きかったと思う(おかげで闘争心がなくなってしまったのは言うまでもない🤪)

そんなわけだから、人生って、他人と比較しようが最後の着地点は誰にもわからない。気にしなくて良い

だから遅い早いも結局何もかもわからないのである(他人は適当なこと言うのさ)

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